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そこで彼女は笑った



「……」

「……」

 これは…。
 夕食の席。俺の後ろには翡翠、目の前で食べている秋葉の後ろには、七夜さんが
控えている。
 しかしこれは…。
 ……前で座って食べている秋葉も同じ感想のようだ。

「あの…、いかがでしょうか?」

 おそるおそるといった感じで、七夜さんは感想を求める。

「いや、なんと言うか独特でとてもこう…」

「20点ね」

 俺が言いよどんでいると、秋葉はきっぱりとそう言って捨てた。

「オイ、秋葉!」

 目に見えて沈んだ顔をしている七夜さん。

「まあ、とりあえず80点と私に言わせることを目標に頑張りなさい。とりあえず
他の家事やなんかは翡翠に任せて、七夜は料理の方を上達させなさい。これだけは、
翡翠にはお願いできないから」

 翡翠は何も言えず下を向く。
 って、何だってこんな殺伐とした食事をとらなきゃいけないんだろう。

「おい、秋葉。お前言いすぎじゃないのか?」

「じゃあ、兄さんはこれから毎日これを食べたいっていうんですか?私は七夜と翡
翠以外に使用人を雇うつもりはありませんし、これからずっとこれを食べるってい
うのもごめんです」

「お口に合うものを作れずに…、申し訳ありません」

 七夜さんは何かを耐えるように下を向いている。

「別に謝る必要はないわ。私は責めてはいないもの。しょうがないでしょう、作り
方を忘れてしまったのなら。けれど、あなたならもっとおいしいものが作れるはず
よ。だから、これから頑張って頂戴といっているだけ」

「はい…」

「それじゃ、おかわりもらえるかしら。今日はなんだかお腹がすいてしまって」

 言って秋葉は空になった皿を七夜さんに向ける。
 え…。
 俺はまだ最初の一口しか食べていない。
 秋葉はあの間に…、これをたいらげたって言うのか…。

「秋葉さま…、お口に合わないようでしたら、今日だけでも何か取られてはいかが
でしょう?」

 遠慮がちに、七夜さんは皿を受け取りながらそう言う。

「ただ単においしいものを食べたいだけなら、とっくのとうにシェフでも雇ってる
わ。けれど、私は気心のしれない人の料理を毎日食べる気はありません。私に気遣
うんだったら、一日でも早くおいしいものを作れるようになって頂戴。ともかく、
つべこべ言わずについできなさい。私はあなたの料理が食べたいんだから」

「はい!」

 満面の笑顔でそういって、七夜さんは変わりをつぎに行った。
 俺の方はといえば、まだ半分も食べていない。

「兄さん、今日は食欲がないんですか? 私が全部食べてしまいますよ?」

 なんだか、今の一言にはカチンと来た。
 くそう、人間やろうと思えば何だって出来る!
 俺はすごい勢いで目の前のスープを飲んでいく。
 スプーンの音はカチャカチャと、
 飲み干す音はゴクゴクと、
 それははしたない姿だったと思うけれど、秋葉がそれに文句を言うことはなかっ
た。




「七夜、私はもっと濃い方が紅茶は好き。たまにはこういったものもいいけれど。
それと、この紅茶に合わせるのはケーキでなくてクッキーのほうがいいわ。これは
香りが弱いから、あんまり甘すぎないものの方がいいの」

「す、すいません秋葉さま。すぐにお取替えいたしますから」

「いえ、構わないわ。今から直していたら紅茶が冷めてしまうもの。ただ、ゆっく
り覚えていって頂戴。さ、いいから座りなさい」

 秋葉の言葉は一つ一つ的確だ。それは棘のある言葉のようで、というか実際に棘
があるような気もするけれど、それで七夜さんを責めることはない。
 それはどちらかというと、なくしてしまったものをとり返させているようで。

「翡翠もいいから座りなよ。一人だけ立たれているとこっちが落ち着かない」

 俺は後ろに控える翡翠に声をかける。

「しかし…」

「構わないから座りなさい。私が何のためにカップを四つ用意させたか分からない
じゃないの」

 それでは…、と翡翠は俺の横、七夜さんの向かいに腰掛ける。

「七夜はショコラよりもチーズのほうが好きだったと思うけれど」

 そういって秋葉は自分の前に置いてあるチーズケーキと、七夜さんの前にあるチョ
コレートケーキを交換する。

「あ、けれど翡翠ちゃんに秋葉さまはチーズケーキのほうがお好きだと聞きました。
今日は数の関係で、チーズは一つしかありませんから、私はこちらをいただきます」

 そういってもとにもどそうとする七夜さんの手を秋葉は止める。

「今日は私はショコラを食べたい気分なんです。いいからあなたはそちらを食べな
さい」

 そういって秋葉はチョコレートケーキに口をつけてしまう。



 ―――何というか、秋葉の行動はすごく真っ直ぐで…、少し不安を覚えてしまう。



 それからお茶会は、久しぶりに屋敷に戻った七夜さんの話題で盛り上がった。

「ええと、私庭なんて持たせてもらってたんですね」

「ええ。あなたがいなくなって少しあれてしまったけれど、まだ十分使えると思う
から、暇があったら見てみなさい」

 秋葉は、「琥珀」さんの記憶を次々と七夜さんに教えていく。
 それは必要なことで、それは大切なことかもしれないけれど、俺には七夜さんを
あの「呪縛」に戻してしまうんじゃないかと、少し不安だった。

「秋葉、そろそろお開きにしよう。翡翠達はまだ食事をとってないし、もういい時
間だ」

 翡翠と七夜さんは、使用人ということで、俺達の食事、その後のお茶に付き合っ
てから食事をとることになっている。

「そうですね。それじゃあ私は部屋に戻ります」

 秋葉は席を立って部屋に戻る。
 翡翠はお茶の後片付けをはじめて、七夜さんは、自分と翡翠の晩飯の用意に向か
う。
 俺は、部屋には戻らず秋葉の後を追った。



「どうかしましたか、兄さん」

「すこし話したいことがある。ここじゃなんだ、良かったら部屋に入れてくれない
か」

「わかりました、どうぞ」

 秋葉は部屋の扉を開けて俺を迎え入れる。

「お茶はいりますか?」

「さっきあれだけ飲んだんだ、必要ないよ」

 秋葉はソファーに座り、俺もその向かいに腰を下ろす。

「それで、お話というのは?」

「お前、七夜さんに詰め込み過ぎじゃないのか? 彼女は…、自分で琥珀という名
前を嫌って新しい名前を求めた。もしかしたら、彼女自身新しい人生を求めている
のかもしれない」

 秋葉は真剣な目でこっちを見ている。
 いや、あるいは睨んでいるのだろうか…。

「料理やなんかのことについてはいい。それは彼女が得るべき能力だ。ただ、『琥
珀』であった頃の趣味や好みまで口にする必要はあるんだろうか?」

「兄さんは、『七夜』が好きなんですね」

 秋葉はこちらを睨んだままそういう。

「当たり前だろう。お前だってそうじゃないのか?」

「私は…、大嫌いです」

 そういって秋葉は目をそらした。

「な!?」

 大嫌いだって?

「そんなバカな! お前はなんだかんだ言って、今日だってすごく七夜さんを大事
にしてたじゃないか!」

「『あの娘』が…、琥珀という名前を嫌ったんですよね」

 秋葉はうつむいたまま尋ねる。

「ああ、前に言ったとおりだ」

「理屈では分かります。あの娘がそういうに至った理由も何もかも。けれど、私は
『七夜』を好きにはなれません」

「どうしてなんだ…」

「だって、私はずっとあの娘、『琥珀』のことが好きだったんですから」

 そんなこと…、俺だって一緒だ。
 「琥珀」さんに幸せになって欲しかった。
 けれど、それはもうかなわないことだから…。

「兄さん、少しは料理が出来ましたよね」

 いきなり秋葉がそんなことを言い出す。

「まあ、ものを炒めたりする程度にはな。それがどうした?」

「厨房に行って、あの娘に作ってあげて下さい。私は…、作れませんから」

 秋葉が何をいいたいのかは良くわからなかったが、今ここにいるのは少し気まず
かった。

「分かったよ」

 そういって俺は秋葉の部屋を後にして、翡翠達のいるはずの食堂に向かった。





 なんて…、おいしくないんだろう。
 自分で食べてそんなことを思う。
 先ほどの秋葉さまも志貴さんも。今目の前で食べている翡翠ちゃんも。
 どうしてこんなおいしくないものを平然と食べられるんだろう。

「ご馳走さま」

 私はこれ以上、こんなものは食べられなかった。

「あれ、姉さんもういいんですか?それじゃあ私におかわりついでもらえますか?」

 そういって翡翠ちゃんは笑顔をこちらに向ける。
 どうして…、みんなこんなものを…。

「どうして? どうしてこんなおいしくないものを食べられるの!?」

 私は分からなくて大きな声をあげてしまう。

「うーん、それはきっと七夜さんが作ったからだよ」

 いつからそこにいたのか、食堂の入り口には志貴さんが立っていた。

「私が、作ったから?」

 言ってる意味が良くわからない。

「そりゃ、確かにあんまりおいしいといえるものじゃなかったかもしれないけど、
それでも七夜さんが作ったものだからね。味覚がおいしいと思わなくても、心はお
いしいって思う。誰かが自分のために作ってくれたものっていうのは、それだけで
食べたいって思えるさ」

 そんなこと、本当にあるんだろうか?
 けれど、そんな夢みたいなことを、昔からこの人は良く言っていた気がする。

「だから、そんな七夜さんにプレゼントです」

 そういって、彼は料理ののったお皿を私の前に置く。

「私に、ですか?」

「うん、あんまり自信はないけどね」

「志貴さま、私にはないんですか?」

「翡翠は七夜さんの作ってくれたのがあるだろ?」

 翡翠ちゃんはちょっとさびしそうな顔をする。
 それはそうだ。こんなにおいしくないもの…、残飯処理の役を押し付けられたよ
うなものだろう。

「そりゃ、姉さんの料理がありますけど…。私、志貴さまの料理をいただいたこと
ないです。食べてみたいです」

「うーん…、さっきもいったけどあんまり自信はないんだけどね。まあ、それでも
いいなら、いつか作ってあげるよ」

「はい、それなら今は姉さんの料理をいただきます」

 なんで、そこで翡翠ちゃんは笑えるんだろう。

「あ、俺がついでこようか? 翡翠おかわりがいるっていってたろ?」

「そこまで志貴さまにさせるわけにはいきません。私は自分でついできますから、
志貴さまは姉さんから感想をいただいていてください」

 そういって翡翠ちゃんは厨房に消えていく。

「それじゃ、食べてみてくれるかな、七夜さん。口にあうかどうかはわからないし、
ただ野菜と肉を炒めただけだけど」

 目の前にある肉野菜炒めは、すごくおいしそうに見えた。恥ずかしい話しだけど、
お腹は空いてしまっている。私の作った料理を、私は半分も食べられなかったから。

「それじゃあ…、いただきます」

 そういって私は肉野菜炒めを口に運ぶ。

「おいしい…」

「本当!? いや、そりゃ良かった。本当自信なかったからさ」

 それは、本当に私の「残飯」とはまるで違う「料理」。
 なんて、おいしいんだろう。

「おいしいです…。本当。こんなにおいしい物が作れるなら、私の料理なんて食べ
なくても良かったのに」

 本当、そう思う。こうやって私に料理を作ってくれる暇があるなら、あんなもの
食べないで、ご自分で作られたほうが良かったように思う。

「いや、俺がそれを食べてもたいして美味いと思わないよ。それこそ、駅前にある
一杯280円の牛丼のほうが美味いと思うぐらいだ」

 牛丼? それはどんなものなのだろう。
 牛がどんぶりに乗っているのだろうか。

「まあ、さっきもいったけど、人が自分のために作ってくれたものっていうのは、
おいしく感じるものだよ。だから俺は七夜さんの料理をおいしいと思うし、これか
らも食べたいと思う」

「そうですよ、姉さん。私、姉さんの料理好きです。それに…、絶対に私が作るも
のよりはおいしいですから…」

 翡翠ちゃんは本当にあれのおかわりをついできたらしく、中身の入ったお皿を置
きながらそんなことを言う。
 これよりおいしくないものなんて、そうそうないと思ったけれど、その言葉を翡
翠ちゃんが心の底から言っているのが、何故だか良くわかった。

「はい、これからもっともっとおいしいものが作れるように頑張っていきます。そ
れまで、おいしくないかもしれませんけど、私の作るものを食べてくださると嬉し
いです」

 私は、なんとかして早く料理を上手くつくれるようになろうと、心に決めた。





「姉さん!?」

 !?
 翡翠の悲鳴が聞こえた。どうやらロビーのほうだ。
 俺は急いで階段をを降りる。

「どうした翡翠! 七夜さんがどうかしたか!?」

「何事翡翠! 七夜がどうかしたの!?」

 秋葉も駆けつけていたらしく、秋葉と声がはもる。

「え、えーと…。一体どうしたんでしょう」

 何が何やらわからないのは、七夜さんも同じようだった。
 七夜さんは、どうやら壷を拭いていただけらしい。

「姉さん、骨董品の手入れは私がやりますから、姉さんは床や窓の掃除を」

 翡翠が遠慮がちにそういう。

「え? いいじゃない、私にやらせてくれても。今日はここの掃除当番は私だし」

 そういって壷を磨きつづける。
 しかし、手を滑らせたのか、壷が横に傾いた。

「「あ」」

 俺と翡翠の声がはもる。
 やった、そう思ったけれど、ガシャンという音はしなかった。

「ふう。すいません、ちょっと気を抜いてしまったみたいです」

 七夜さんはしっかりと壷を支えなおしていた。
 それから七夜さんは慎重に、壷を拭きつづける。
 問題はなさそうだ。
 俺と翡翠はホッと胸を撫で下ろすが、何故か秋葉はすごい不機嫌そうだ。

「翡翠! 何もないのに大声なんてあげないで頂戴。びっくりするでしょう!」

 秋葉は翡翠に向かって一喝する。

「申し訳、ありません…」

 翡翠が頭を下げるのに目もくれず、

「部屋に戻ります」

 と言って秋葉はいってしまう。
 俺にはなんとなく分かった…。
 秋葉はあそこで、七夜さんに壷を割ってほしかったんだ。







 やはり、私は以前の私とは違うようでした。
 私自身、以前の私を思いだせないのだから、それも当然という気がします。
 …何故か、不安になってこんな時間だというのに志貴さんの部屋に足を向けてし
まっています。
 私は、翡翠ちゃんのことも秋葉さまのことも大好きだったように思います。
 当然、今も大好きなのですけれど。
 けれど志貴さんには、そういったものと違った感情があったように思います。
 あれ…?
 私、過去に感情なんて持っていたでしょうか?
 それも、良く覚えていません…。
 私がこの屋敷に帰ってこさせて頂いて、1週間がたちました。
 料理は、何とか秋葉さまに50点を頂ける程度にはなりました。
 秋葉さまの紅茶の好みも、だいぶ分かるようになってきました。
 庭は、一生懸命手入れして、今は綺麗な花が咲いています。
 前に植えられていたものは薬用のものが多かったそうですが、今の私には良くわ
からないので、何も考えず、ただ綺麗な花を植えさせていただきました。
 何故か最初の頃、私が壷なんかを磨くと皆さん止めようとなされましたが、今で
はそういったことはなくなっています。
 そして一週間ずっと…、深夜の見回りの時、何をするでもなく志貴さんの部屋の
まえで立ち止まってしまいます。
 けれど、その日は今までと違いました。

「あ…はっ、はぁ…」

 翡翠ちゃんの声が聞こえます。

「志貴さま、っ…、姉さ、ん、に気づかれて…しまいます」

「ここ一週間ずっと我慢してたんだ。たまにはいいじゃないか」

 志貴さんの声も聞こえます。

「翡翠だって、なんだかんだ言ってその気じゃないか」

 なんというか、志貴さんの声はいつもの優しい声ではなくて、「男」の人の声だ
と思いました。
 男…?

「ああっ…、はぁ、ああああ」

 喘ぎ声?

「ああ、愛してるよ翡翠」

 愛してる? 愛してない?

「き…、気持ちいいです、志貴さま」

 気持ちいい? 気持ち良くない?


 ……気持ち悪い?


 うっ…。
 何故でしょう。嘔吐感を覚えました。
 今日はトイレに行って休ませてもらいましょう。





「ウソ!?」

 それは今までの料理と比べるべくもない。
 今日の朝食は、まさしく「琥珀」のそれだった。

「どうかなされましたか? 秋葉さま」

「な、何でもないわ…」

「ところで、今日のお料理はどうでしょう?」

 七夜は笑顔でそう尋ねてくる。

「90点よ…」

 私は呆気にとられながらも、そう答えていた。

「あは〜。嬉しいです。やっと練習の成果が出てきたんでしょうか」

 どうしてだろう。

「目標達成です」

「そうね…。それじゃあ今度は100点を越えるものを食べさせて頂戴」

「はい、頑張ります」

 私は何か腑に落ちなかった。





 あれからまた一週間。
 明らかに、おかしい。
 七夜は骨董品を一つ壊した。それはただのミスだ。けれど、それ以来決して骨董
品に触ろうとしない。
 七夜の料理は美味しくなった。いや、違う。七夜の料理が美味しくなったのでは
ない。
 あれは、「七夜」の料理から、「琥珀」の料理に変わったのだ。
 それでも変わらずこの生活は続く。
 兄さんと翡翠は、変だとは思ってもあまり気にしていないようだけど、私は違う。
 これは絶対におかしい。
 だから、少し彼女を試してみた。





「秋葉さま、ご用ですか?」

「ええ、気分がすぐれないのだけれど薬をもらえるかしら?」

「はい、それではお持ちいたします」

 七夜…、いや恐らく琥珀は一度下がる。
 これで、恐らくはっきりとするはずだ。
 再びノックがあり、琥珀が中に入ってくる。

「秋葉さま、おもちしました」

 琥珀が持ってきたのは粉末上の薬…。

「ご苦労様、『琥珀』」

「秋葉さま…、今の私は七夜という名前をいただいております」

 琥珀は少し困ったような顔でそういう。

「とりあえず、あなたの得意な演技はもうやめなさい。全く、あなただってどこか
無理だってわかってるんでしょう。こんな簡単なミスを、昔のあなたがするはずな
いもの」

 そういって私は粉末の薬を手に取る。

「あ……」

 しまった、という顔はこういう顔です、という見本のような顔をして、琥珀は押
し黙った。

「いつの間に薬の処方の仕方なんて覚えたのかしら? 『七夜』さん。私はてっき
り市販のものを持ってくるものと思ったけれど」

「まったく、秋葉さまにはかないません…」

 そういって琥珀は苦笑する。

「どうして、隠しているの。恐らく、一週間前には全部思い出していたはずでしょ
う」

「ええ、秋葉さまのおっしゃる通りです」

「それじゃあどうして? 私は…、私はずっとあなたを待っていたのよ?」

 そういって、ギュッと右手を強く握りしめる。

「だって…、幸せなんです」

 琥珀はそういって、穏やかに笑った。

「私は人形でした。人形は操る糸や、動く歯車が必要です。それは生きる『目的』
というもの…。私は昔それが見つからなくて、あんなことをしてしまいました。け
れど、そんな私に、私がここに初めて帰って来た日、秋葉さまは当たり前のように
私に目標をくださりました。『私に80点を超えるものを食べさせろ』って。その
つぎは100点でしたね。私は、秋葉さまがどういった基準でその点をつけている
のか分かりませんけど…。今も100点目指して頑張っているんですよ?」

 琥珀は、以前と同じようで、全然違う笑い方をする。
 それは、同姓の私でも見ほれるかのような笑顔。

「ああ、こんなに目標を見つけるのって簡単だったんだ、って思いました。それか
ら私は、『七夜である私が、どれだけ『琥珀』のふりをできるか』を一番大きな目
標にしました。秋葉さまは『琥珀』を求めてらっしゃるようでしたから。だから、
私がもう『琥珀』に戻ってることがばれてしまったら、私はまた『目標』を失って
しまう。だから私は黙っていたんです。でも、秋葉さまにはばれちゃいましたね…。」

「当たり前よ…。琥珀はどう思ってるかしらないけれど、あなたと一番顔をつきあ
わせてたのは、翡翠でも兄さんでもなく…、私なんだから」

「ああ、これでまた何をしていいか分からなくなってしまいました。私は演じるこ
とでしか生きられない。その仮面もはがされてしまいましたし」

 この娘は…。

「いつまでそんなこといってるの!」

 私は無償に腹が立って叫んでしまう。

「秋葉、さま?」

「いきる目標が欲しいなら、あなたは私のために生きなさい。私には琥珀が必要。
だからあなたは私のために生きればいい。目標なんてものは、いつだって私があげ
から」

 いつのまにか、私は涙を零していた。

「秋葉さま…、それ、プロポーズみたいです」

 琥珀も、涙を流して笑いながらそんなことをいう。

「相変わらず器用ね。泣くか笑うかどっちかにしなさい」

 そんなことを言いながら、私の口元も緩んでしまう。

「秋葉さまだって、笑ってらっしゃいます」

「琥珀…。『琥珀』に戻って、くれるわね?」

「はい、私は琥珀という名前が嫌いだったわけではないみたいですし。私は、ただ
人形であった頃の自分がいやだっただけです。私が『琥珀』に戻っても、私が人形
にならなければいいだけの話ですから」





「……」

 話しを全部聞き終えて、俺はなんと反応していいかわからなかった。
 翡翠も、横で黙っている。
 けれど、これは喜ぶべきことだと思う。

「ごめんね、翡翠ちゃん。いままで黙っていて」

「そんな…。姉さんを、姉さんを責められるわけがありません」

「私が『琥珀』に戻ったことを言わなかったもう一つの理由は、やっぱり翡翠ちゃ
んのことが気になったから。私が『琥珀』に戻ったら、翡翠ちゃんはまた笑わなく
なるんじゃないかって…」

 それは…。

「そんなこと…」

「ええ、そんなことないって分かった。だって、翡翠ちゃん本当に幸せそうに笑う
んだもの。その笑顔は、志貴さんにもらったものでしょう? 私なんかがどうこう
できる笑顔じゃないって分かったから。だから、こうして翡翠ちゃんと志貴さんに
も真実を話すことにしたんです。そうじゃなかったら、秋葉さまに頼んで黙ってま
すよ」

 でも、俺にも良く分かった。琥珀さんのその笑顔も、もう他人にどうこうできる
ものではないぐらい、眩しいものだということを。

「姉さん!」

 翡翠は琥珀さんに抱きつく。琥珀さんは翡翠を受けとめる。
 その光景をみて、ごちゃごちゃした頭は、みんなすっきりしてしまった。




「けれど、どうして記憶が戻ったんですか、姉さん。お医者さまは絶望的とおっ
しゃっていたのに」

 翡翠がお茶を配り終えて、琥珀さんの前に座りながら尋ねる。

「私の記憶障害は、実はそんなに深いものではなかったんですよ。たとえば、飛行
機の設計士は、飛行機のことだけでなく、数学、科学、図面に関することや、動力。
そういったことをみんな知ってますよね。けれど、その設計士が、飛行機という言
葉を忘れてしまったら、どうなると思いますか?」

 どう、なるんだろう。

「みんな忘れてしまうんですよ。飛行機というものを設計するために集合した知識
は、その中心となる『飛行機』という知識をなくしてしまった時点で全て意味をな
さなくなってしまう。その知識一つ一つは、しっかりその設計士の中で生きている
のに、それが用を成さなくなってしまうんです。私も、自分が忘れたかったことに
ひきづられて、多分全部の記憶を失ったんだと思います」

 なるほど、琥珀さんが忘れたかったのは一つのことがらだけ。
 それを忘れたから全てを忘れてしまった。
 つまり、その一つを思い出せば、全ての記憶はよみがえる…。

「私の場合は二つでした。一つは『性交』もうひとつは『人形』です」

 ……なんだかイヤな予感がする。
 琥珀さんの記憶が戻ったのは一週間前と聞いたけれど、その日は確か。

「志貴さんと翡翠ちゃんのおかげで記憶が戻ったわけですね。ええ、一つ思い出し
たら早かったです。その後槙久さまの書斎を調べるだけで、『人形』の方の記憶も
戻ってくれましたから」

 やっぱり…。

「なるほど。兄さんと翡翠の『行為』のおかげで、琥珀の記憶が戻ったわけですね」

 秋葉が怖い…。

「……」

 翡翠は赤くなってうつむいている。

「そ、そういえば名前はどうしようか。琥珀さんはやっぱり琥珀さんって呼べばい
いの?」

 俺は全力で話しをそらす。

「はい、そうお呼びになって下さい。けど、七夜の名前も気に入ったので、それは
名字にいただきますね。はい、私は今日から七夜琥珀です」

 そういって琥珀さんは屈託なく笑う。

「それじゃあ、私も七夜翡翠になるの?」

「翡翠ちゃんは、近いうちに遠野翡翠になるからいいでしょう」

 そういって琥珀さんはこっちを見てにっこり笑う。
 翡翠はその意味を分かって真っ赤になってしまう。
 実はこの人やっぱり、地でこういう性格なんじゃなかろうか…。

「それじゃあ、私は昼食の準備をしますので」

 そういって琥珀さんはいってしまう。残るのは当然…。

「さて兄さん。高校生のあるべき姿というものについて、少しお話しましょうか」

 眼が笑っていない秋葉。

「い、いや遠慮する。俺ちょっと庭を散歩してくる」

 そういってすばやくそこから抜け出した。
 後ろからは秋葉の声。
 気にせず俺は庭に出る。





 なんとは無く、昔いつも遊んでいた場所にきた。
 そしてなんとはなしに、「あの」窓に目を向けた。
 何故だか知らないけれど、昼食の準備をしているはずの琥珀さんがそこにいた。

「志貴さーん。昼食の準備できましたよー。そんなところにいたんですね。早く食
堂にいらっしゃってください」

 そこにいるのは、かつての少女ではない。

「はーい。今行きます」

 いって俺は食堂に向かう。
 窓際の少女は、
 窓際で少女は、
 最高の笑顔を俺にくれた。



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