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べ に ひ ま わ り
紅向日葵
そうして、俺は今日もこの場所で空を見上げる。鬱蒼と繁った木の間から見える空はとてもまだらで、なんだか、今の自分の心みたいだった。
「志貴さま…。秋葉様がお呼びです」
いつのまにかやってきたのか、後ろから翡翠に声をかけられる。
「うん、分かってる。もういつもの時間だ。すぐに行くよ」
そう言って俺は秋葉のいる離れに足を向ける。
「志貴さま!」
翡翠の悲痛な声に一瞬足を止める。けれど翡翠が何を言いたいかは分かっていて、それに対する俺の答えもいつもと変わらない。だから…。
「ゴメン、翡翠。それでも行くよ」
そうとだけ言って俺はまた歩きだす。
「や、秋葉。今日は随分と綺麗じゃないか。ちゃんと琥珀さんの言うことを聞いて体を拭いたんだね。偉い偉い」
そういって秋葉の頭を撫でる。真紅の髪に包まれたその頭を。
何故だろう。体は汚れ、拭かなければならないのに、秋葉の髪は乱れることはあっても汚れることはなかった。その存在を誇示するように、遠野秋葉の髪は今日も美しい赤を示している。
「んー――――」
秋葉が腕に噛みついたらしい。
もう慣れたと思っているけれど、それでもやはり完全には感覚は消えていないらしい。
それでも、俺の右腕にはもう「痛覚」というものは存在しなかった。
一年…。こんな生活がもう一年続いてる。
こんな?
俺はかぶりを振る。違う。こうして秋葉とまだ一年一緒に生きていられた。それを喜ばなければ嘘だ。右腕のほうだけ肩で切られた特殊な長袖。
それを遠野志貴はこの一年間着つづけてきた。それはどこかの流行を追う、テレビの歌手のおっかけのような服装。けれど、俺がこの服を着つづける理由はそんなものでは全くない。
右腕に噛みつく秋葉を見る。
そして自分の右腕を見る。
自分で言うのもおかしな話だが、右腕は綺麗なままだった。痛覚がなくなり、神経がおかしくなるそんな状態になってなお、俺の右腕は綺麗なままだった。
ついている跡は犬歯の幅で二つだけ。
秋葉はいつも同じ場所から血を吸いつづけた。
まるで血を吸うその行為にすら、俺をいたわっているかのように。
秋葉が口を離したらしい。
昔はその瞬間を、心のどこかで待っていた。一日の痛みが終わる瞬間。
けれど、今はなんとか口が離れたのか、と思う程度にしか、俺の右腕は機能していないらしい。
事実…俺は今箸も持てない…。
それでも嬉しいことがあった。満腹になると秋葉が笑うんだ。
今も俺に向かって無邪気に笑う。
そうなってから…・、俺は秋葉が血を吸っている最中に意識を失わなくなった。
意地でも意識を保った。何とか自分を奮いたたすために左手で足首に爪をたてたりもした。
今では秋葉の吸う右腕よりも、その足首のほうが傷だらけなんだから、おかしな話だ。
目の前には秋葉の笑顔がある。
ああ、これを見るだけで、今日も、明日も一日「生き延びよう」と思える。
俺はまどろむ意識をなんとか保って、最後に秋葉の髪を撫でて離れを去ろうと思ったけれど…。
右腕の自由は利かないし、左手は足首を強くつねりすぎて、血がついていたので我慢した。
「それじゃあ、また明日な秋葉。琥珀さんの言うことをよくきくんだぞ」
そういって部屋を出て…、そのまま倒れる。
薄れる意識の中、翡翠が駆け寄ってくるのが見えた。
ああ…、これじゃ翡翠に文句を言われても…仕方…な、い……か…。
俺はいつもの部屋で眼を覚ました。白い…、病院を思わせる部屋。
俺ようにあたらしく用意された、「血を入れるための」部屋…。
いつものように右手の少し上に針がさされている。そこからは、秋葉の髪とは似ても似つかないほど…、醜い赤が送り込まれる。どこの誰のものとも分からない血。けれど…、その血のおかげで、遠野志貴はこの一年生きてこれた。
「志貴さん、お目覚めですか?」
琥珀さんが横から声をかける。秋葉がああいう風になって琥珀さんの仕事は減ったかといえばとんでもない。逆に増えてしまっている。
秋葉の世話に、俺の世話…。ここ一月毎日のように遠野志貴は倒れている。
「ああ、いつもごめん琥珀さん」
「いえ、これが私の仕事ですから」
時間はいつもと同じ夜の八時。昼過ぎの二時に秋葉に血をやって、そのあと倒れて6時間眠る。
血を入れてもらって、この後軽い夕食を取る。そしてまた10時から血が少しでもなじむように12時間眠る。そのあとの四時間は何をするでもなく、「ぼう」としてすごす…。
遠野志貴はそんな生活をもう半年は続けている。
右腕の感覚が希薄になりはじめた1月。
この部屋が出来た3月。
学校に行くのを諦めた5月。
有彦からのラメーンの誘いを、油っぽいものは食べられないから、と断った7月。
今年は暑さを感じないな、と思ったらただたんに自分の体が冷え切っているということに気がついた8月。
そして、秋葉が笑った10月……。
「さ、志貴さん。ご飯を食べてくださいな」
琥珀さんから渡されるお粥を受け取って、蓮華を左手で持って食べる。
「左手の扱い、慣れましたね…」
ふとそんなことを琥珀さんが口にする。
それは、この生活の長さを物語っていた。
「そう、ですね」
俺はいつもと変わり栄えのしないお粥を食べながら、あいまいに返す。
「志貴さん……」
琥珀さんが珍しくこわばった顔つきで話し掛ける。
秋葉がこうなってからも、この暮らしが続けられたのはきっと彼女の笑顔があったから。
いつも俺の分も、翡翠の分も、秋葉の分も彼女が笑ってくれた。
彼女がこんな顔をするのは本当に珍しい。
「どうしたんです?」
俺は食べ終わった椀を渡しつつ、琥珀さんに尋ねた。
「明日…、遠野の分家の方がここにお集まりになります」
俺には最初、それがどういう意味を含んでいるかわからなかった。
「ずっと、秋葉様のことは隠してきました。「四季」を始末した代償に傷を負われた。今はその傷を 癒していると…。けれど、どうやらその嘘ももう持たないようです。力が至らずに申し訳ありません」
そういって彼女は辛そうに頭を下げる。
そして俺は知った。俺のこの身勝手な生活が、どれほどの他人の苦労の上に成り立っていたかを…。
「分かった。ゴメン、琥珀さん。迷惑かけたね…。明日は俺が遠野家の長男として、その場に立ち合せてもらいます」
そういって、少しベッドからみを乗り出して琥珀さんの肩に触れる。
「でも…、志貴さんは…」
「分かっています。それでも、俺が遠野家の現当主の兄であることに変わりはありません」
そういって琥珀さんの目を見る。
「志貴さんは、本当どうしてそんなに強い目をなされているんでしょうか…。前にも申し上げましたけど、今の志貴さんはいつ死んでしまってもおかしくありません。それなのに、どうしてそんなに…」
ふぅ、と息をついて琥珀さんは立ちがある。
「いえ、何でもありません。変なところをお見せしてしまって申し訳ありませんでした。それでは、今日はもうお休みください。明日は10時には皆様いらっしゃいますから、八時には起きていただかないと」
「わかりました。それじゃおやすみ、琥珀さん」
「はい、おやすみなさいませ」
そういって、食器を手に持って琥珀さんは出ていった。
忘れていた…。ここが「遠野」という家だということを…。
久しぶりに右腕の切れていない服を着て、俺はその部屋に入った。
何故だか…、注がれる視線は非常に冷たいものに思えた。
琥珀さんに椅子をひかれ、そこに腰を下ろす。
「秋葉様はどうされたのですか?」
見たことのない、初老の男性が口を開く。
「秋葉は…、紅赤朱となりました」
ためらうことなく俺はそう口にする。
ザワリと、その場の空気が変わったように思う。
「それで、秋葉様は?」
「俺が殺しました」
今度こそ、ザワザワと空気だけ出なくそこにいる人間が騒ぎだした。
「しかし、紅赤朱となったものを、そうそう人が殺せるものか! 秋葉様が死んだだと!? そんなでたらめが信じられるものか!」
激昂して太った中年が椅子から立ちあがる。
「久我峰殿、落ち着かれよ」
そこにいるどのようなものとも違った声が響き渡る。
「軋間様…」
そう呼ばれた男性は、本当にまだ俺より少し年上というぐらいの年齢に見えた。
――――――― ドクン
何故だろう。そいつを見たときに心臓が高く跳ねた気がした。
「もはや、腹の探り合いをしているような状況ではなさそうだ。そうだな、七夜志貴殿?」
その呼び名にこめられた意味は俺にも良く分かった。
「ええ、私は七夜の退魔の能力…、そして」
言って俺はメガネをはずし、琥珀さんから受け取った鉄の棒を音もなく「殺した」
「どうやら私は物の切れやすい線が見えるようです。これを用いて、秋葉を殺しました」
ふむ、と軋間と呼ばれる男は軽くうなづき
「それでは遠野の血は絶えたということか」
その一言に一層部屋の中は騒がしくなる。
「静まられよ!」
途端、部屋の中は静寂に包まれる。
俺にも良く分かった。
いや、俺には恐らく人より良くわかった。
その男が、「違うモノ」の混じる遠野の一族において、特に違うということが。
「とりあえず、これからの対策を練らなければならない。今日はこれまでとしよう。明日、再び同時刻に集まる。それまでに各自意見を纏めておくように」
そういってその男は部屋を出た。
つられて次々と客人は部屋を出て行く。
俺は後ろに控える琥珀さんに尋ねた。
「あの軋間っていうのは誰?」
「現段階の遠野一族で、秋葉様に次ぐ発言力を持つ方です。遠野の一族の中でも軋間の一族の方は血が濃いらしいですから。あまり経済的な力は持っておられないようですけど、遠野の一族が大事にするのは、血のつながりであるそうですから」
「その通りだ」
それは、先ほど一番に部屋を出たはずの男から発せられた言葉だった。
「軋間様、お帰りになられたのでは?」
琥珀さんが笑顔を浮かべて尋ねる。
「私はそこの七夜のものにようがある。少し二人で話をしたい。席を空けてくれるか?」
臆面もなくそういって、三人以外誰もいなくなった巨大な部屋の扉からこちらに近づいてくる。
「琥珀さん…」
俺は肯定の意を浮かべて琥珀さんを見る。
俺も…、この男と話してみたかった。
「分かりました。それでは何か御用がございましたらおよびください」
そういって琥珀さんは部屋を出て行く。
「とりあえず、かけさせてもらう」
いって彼は俺の右斜め前に腰掛けた。
先ほどは長いテーブルの端と端。
もっとも離れた場所に座っていたが、それも遠野家の勢力関係といえるのだろうか。
「単刀直入に言う。秋葉様は死んでいないな?」
ズガンと頭を殴られたかと思うほどの衝撃。
「そんなバカな…。紅赤朱となったものが生きていて、世間で騒がれないはずがないでしょう」
「先に言った通り、変な腹の探りあいはいい。時間の無駄だ。秋葉様を守りたいのなら私に隠す必要はない。別に秋葉様を殺そうというわけではない」
「何で…、それが分かるんですか?」
「紅赤朱が近くにいるのが分かるからな。私はそういった血のもとに生まれている。それに私は一人紅赤朱を殺している。自分の父をな…」
そういって男は少し遠くを見る眼をした。
「軋間の一族はもう何代もそうしてきている。軋間の一族は必ず紅赤朱になってね。そして、そうなると一人では死に切れない。だから、自分の子供の力を借りる。自分の残った少しの意思と、子供の力を持って、軋間の当主は死ぬ。そして、子供はその自分の親を殺すという行為で、また一歩紅赤朱に近づく。面白いほど滑稽な一族さ、軋間はね」
「遠野の当主は自ら死ぬと聞いています」
「ああ、だが私達はそれを行えるほど自我が残らない。だから、子供にその役を任せる。…失礼、話がそれた。秋葉様の話だが、とりあえず秋葉様に会わせてくれないか?」
「それは……」
それはどうなのだろう? この男を信用してもいいのだろうか?
「悪いようにはしない…。こうして話をしているのも、少しでも君に罪滅ぼしをしたいから他ならない」
「罪滅ぼし?」
この人に何かをされた覚えなどない。
「君の一族、七夜の一族を滅ぼしたのは…、私の父の所為だ」
そういわれた時、深い記憶がよみがえろうとする。
深い深い森の中。
みんなが楽しげに騒いでる。
幕はまだ……。
ブンっと、頭をふる。今はそんなことはどうでもいい。
「分かりました…。けれど、もし秋葉に何かしようとしたら…」
そういって俺はメガネに手をかける。
「分かっている」
「それでは、こちらです…」
俺はそういって椅子をたった。
時刻はちょうどいい具合に1時45分。
このまま秋葉に血を飲ませよう。
「俺はいつも通り、秋葉と接します。あなたはそれを見るだけ。構いませんね?」
「ああ、構わないとも」
俺は離れに足を踏み入れる。
「秋葉、来たよ」
軋間は部屋には入ってこない。扉の向こうからこちらを眺めるだけだ。
そうして、いつものように秋葉の髪に触れる。
やはり、いつもよりも少し早かったからだろうか?
秋葉が血を吸い出すまでには少しの間があった。
折角の秋葉との時間だと言うのに・・・、俺はどうしても軋間の視線が気になった。
そうして秋葉のいつもの笑顔。
そう、この瞬間…。この瞬間だけは何物にもかえられない。
この瞬間のために俺は生きている。
たとえ相手が何であっても…、この笑顔を奪わせたりはしない。
「それじゃあ、行くよ秋葉。ちゃんと琥珀さんの言うことを聞くんだぞ?」
今日は意識は朦朧としなかった。
気が張っているのが自分にも分かる。
俺はそのまま部屋を出て、軋間のほうを見る。
何故だか…、彼は悲しそうな顔をしていた。
張っていたのは意識だけで、体は持ってはくれないらしい。
俺はその場に倒れこむ。
いつものやわらかな翡翠の手ではなくて、無骨な男に体を支えられた気がした。
そうしていつもの部屋で目を覚ました。
部屋には、どうやら琥珀さんだけでなく翡翠と、軋間もまだいるようだった…。
「どうして、まだここにいるんですか…」
意識をはっきりさせて、上半身を起こしながら軋間に問う。
「君に言っておかなければならないことがある」
何故だろう、翡翠はまだしも、琥珀さんまでも悲痛な顔をしているのは。
「君は、どうしてまだ生きているかわかるか?」
何だそれは…。そんなの分かるはずがない。確かにいつ死んでもおかしくないとはいわれているけれど…。
「言葉を変えるか…。君のその命はもともと誰のものだ?」
それは…。いわれるまでもない、この命は秋葉のものだ。
「結論を言おう。君が今なお生きているのは秋葉様のおかげだ」
「そんなこと、いまさらいわれなくても…」
「いや、君が思っていることとは少し違う」
何が、違うっていうのだろう。
「秋葉様は、お前が秋葉様に血を与えて弱るたびに、君に分ける命の割合を増やしているんだ」
え……?
「秋葉様は君を死なさないために、10ある命のうち、今もう8以上を君に分け与えている」
ちょっと待て…。
「秋葉様は、紅赤朱になられても君のことを思いつづけている…」
「それじゃあ俺は! 俺は秋葉に血を与えているようで実は秋葉から命を奪っていたっていうのか!?」
俺は軋間に掴み掛かった。
「そういうことだ…。このままでは秋葉さまも君も…、多分一月も持つまい」
なんて…、こと。
「一晩良く考えろ。君はどうしたいのかを。明日の会議の前に君の意思を聞く。私に出来ることなら手を貸そう…」
そういって軋間は部屋を出て行く。
「そんな…」
わからない。
俺は秋葉と一緒に生きていたかった。
ただ…、それだけだったのに…
「志貴さま…」
「志貴さん…」
翡翠と琥珀さんに声をかけられるが、今は良く頭が動いてくれない。
ともかく、秋葉に会いたい。
俺はそう思ってベッドから出る。が、すぐに倒れてしまう。
「志貴さま! ご無理をなさらないでください」
翡翠が俺の傍に駆け寄るが、正直うざったい。
「秋葉に、会いたいんだ」
ともかく、今の俺にはそれしか考えられなかった。
秋葉
秋葉
秋葉
秋葉
秋葉に会いたい…。
「分かりました。それでは私につかまってください」
「姉さん!」
「翡翠ちゃん…、志貴さんは秋葉さまに会いたいんだそうです。手を貸してくれる?」
「……」
翡翠は黙っていたが、結局俺の右肩を支えた。
「すまない、二人とも」
「いいんですよ…。私も今秋葉さまに会いたいですから」
そういって琥珀さんは俺の左肩を掴んだ。
秋葉は、いつものようにぼうとどこかを見ているだけだった。
こっちが近づいても、反応はない。
秋葉がこっちに反応してくれるのは、いつも満腹になったときだけ…。
「秋葉…、お前はどうしたい?」
俺は秋葉の髪を撫でてそう問い掛ける。
答えは…ない。
「このままだと、お前は俺と一緒に死ぬんだってさ。共倒れってやつだ」
翡翠が、下を向いている。
「でもさ、なんか…。それでもいいかって、思ってきちゃったよ…」
琥珀さんは、まるで秋葉と同じように表情が浮かんでないように見えた。
「俺だけが生き残るのも、お前だけが生きるのも、きっと何か違うんだ。秋葉…、俺とお前はもう離れられないんだよ。…全く、俺は兄貴失格だよなあ。いつもお前に助けられてばかりだ。でも、でもさ…。お前が俺のために命を割いてるって話を聞いて…、俺嬉しかった。やっぱり、どんな風になっても…、秋葉は秋葉なんだって…」
そういって秋葉を腕に抱く。こうして秋葉を抱くのはもう多分半年ぶりくらいだと思う。
抵抗は、ない…。
あったのは…俺の後ろに回された腕の感触…。
それは、夢であったろうか。
俺は半年ぶりに秋葉を抱いて…、
一年ぶりに秋葉と抱き合った……。
「答えは、出ました」
朝になって一番、俺は軋間にそう告げた。
「……頼みます」
「分かった。そのようにしよう。外に車を用意しよう。早く行くといい。今ならまだ誰も来ていまい」
「すいません、何から何まで」
「気にするな。言ったろう、罪滅ぼしだと。…それに、身内が紅赤朱になる辛さっていうのは、私も良くわかっているからな」
ありがたいことに、秋葉は全然抵抗しないでくれた。
「こうしてまた秋葉様をお送りできるのは、ありがたいことです」
初老の運転手は、前から秋葉付きであったらしく紅い髪も気にせずそう穏やかに笑った。
「秋葉が世話になりました。毎日の学校や、習い事がある日なんかはとくに遅かったですし」
そう言うと、何故か運転手は不思議そうな顔をした。
「習い事、ですか? 秋葉様は中学にお入りになられてからは習いごとはしておられないはずですが?」
「え…?」
「秋葉様が遅くなられる日は、親戚のかたとの会議があった日です。昔は遠野のお屋敷で会議が開かれてましたが、槙久様がなくなられてからは、別の場所でおこなうようになったようですが」
その時、一つのことが頭で繋がった。
あの親戚の人が俺を見る冷たい目。
それは俺が七夜であるから…。
秋葉は、親戚の反対を押し切って、遠野の屋敷から親戚を追い出したといった。
それは、本当に…、本当に全て俺のためで…。
「どうかなされましたか?」
俺はすっと涙をぬぐって、横に座る秋葉の手を握った。
「いえ、俺の妹は良く出来た妹だと、改めて思っただけのことです」
よくよく考えてみると、全寮制の学校の住人であった秋葉が、習い事をしているというのもおかしな話だった。
「身をわきまえない言葉で恐縮ですが、私も心配ではあったのです。秋葉さまのお帰りが遅いことに…。遠野の一族にとって、「門限」とは特別なものであるようですから」
「それは、どういう意味です?」
「遠野の血は夜に強く働く。過去、遠野のご当主さまが、夜中に使用人や親戚を惨殺した、という話もあるそうです。それより遠野家では門限というのは、何よりも重視されているようで…。私も今は無くなった家ですが、もとは遠野の分家の出でして。秋葉さまのお帰りが遅くなられるのは、少し心配でありました」
俺は…、秋葉に門限を伸ばせといった。
俺は、門限を破って外に出た。
秋葉は…、夜にはいつも自分の血と戦っていたというのに…。
秋葉の手を握る手に力を込める。
涙は拭えない。拭う気もない。
だって、右腕の自由は利かないのだから、涙を拭くってことは、この左手を離すってことだから…。
「軋間様…、どうなさるおつもりで?」
刀崎の当主がそう尋ねた。
「遠野家の血が絶えた以上、分家が今の遠野の役割を継がねばならない。その一族をこれから決める」
何も言わず、自分以外の全てのものが頭を下げた。それで全てはきまった。
「分かった。以後軋間は遠野の役割を継ぐ。表向きには遠野秋葉、遠野志貴は事故で死んだとしておけ」
「軋間様…、志貴は、どうなったのでしょうか?」
今日は特別に呼び寄せた、本来こんなところにいるはずのない、有間のものがそう尋ねる。
「昨日、私が始末した」
「……」
有間のものは一度目を閉じたあと、
「何故です!? 殺す必要はなかった! それなのに何故!!」
私に掴みかかってくる。
「やめたまえ!」
他の者はそれを止め様とするが、
「構わぬ…」
私はあえて、有間を近づけた。そして耳元で囁く。
「社会的にな…」
「え…?」
その場で有間は泣き崩れる。
皆有間が七夜を預かっていた事は知っている。
そこまで不自然でもないだろう。
有間はバカではない。あの一言で全て分かってくれたはずだ。
「それでは、これよりこの屋敷は軋間のものだ。何か意見のあるものは述べよ」
そうして会議は続く。
しかし…、やることが例え変わらなくても、「当主」というだけでこうも疲れるものだったとは…。
そこは七夜の森のあと。近くには軋間の用意してくれた住居がある。
あれから3週間。
俺がこんな眼を持っているからだろうか。
良く…わかる。もうすぐ、自分が死ぬことが。
「秋葉、俺は幸せだった。お前が死んで俺が何十年生きるより、俺が死んでお前が何十年生きる より、きっとこの1年は幸せだったと思う。俺は、自分のしたいことをつらぬきとおせたんだから」
薄れゆく意識の中、秋葉に最後の言葉をかける。
「秋葉、愛している…」
最後の力で、俺は秋葉に口付ける。
いつものように…、反応はない。
けれど、秋葉の体温は感じられた。俺には、それで十分だった。
そうして私は目覚める。
全ての命が私に返った一瞬だけ…。
「バカですね、兄さんは…。結局約束を破って私を殺してはくれなかった…」
それでも…。
「それでも、秋葉は幸せでした。私も、兄さんを愛しています」
そうして兄さんの上に倒れこんで、まだ暖かい唇に口付けた。
兄さんと一緒に過ごした2週間。そして、私がこうなってからの1年間…。
それは、兄さんのいなかった8年間より、何百倍も輝いていた。
だから、兄さんの言うとおり…。
これが一番幸せな終わりかもしれない…。
「ご苦労…」
そこには土にまみれた少女が二人。軋間は自分がやるといったのだが、二人は断固として引かなかった。
「供える花はいりませんね…。これだけのひまわりが咲き誇っているなら」
「悪いが墓標はおけん。遠野家の墓に、形だけの二人の墓が出来る」
「それも必要ありません。これだけ咲き誇るひまわりがあれば…。けれど、11月にもなったこの時期に、どうしてまだひまわりが咲いているんでしょう…」
「あるいは…、人の血を吸ったからかもしれん」
そういった話は、少なくない。その世界に身を置く軋間は、そのことを良く知っている。
「さて、君達はもう自由だ…。彼に頼まれたことの一つは今果たし終えた。次は君達の番だ。君達に戸籍を用意する。もうこの世界と関わることはない。表の世界に帰るといい。それで…、苗字は何がいいかね?」
「遠野、にしていただけますか?」
カチューシャをした少女がそうつげる。
「姉さん!?」
「余計な口出しだが…、君は遠野の家を恨みこそすれ…」
「私が恨んだのも遠野であるなら、私が愛した人もまた遠野の人のようです。私は彼らの「遠野」を継ぐ気はありません。私は「彼女」の遠野を継ぐんです」
そういって季節はずれのひまわりの前で、琥珀は屈託なく笑った。
「分かった。君もそれで構わないかね?」
「異論があるはずもありません」
そういって翡翠も、主人の眠る前で朗らかに笑った。
「本当は関係をかくして戸籍を作るのに、同じ遠野というのはやりづらいんだが…。彼との約束だ、何とかしよう」
そういって軋間は苦笑する。
「住む場所はどこがいいかね?」
「出来れば、あそこを…」
そこはここからすぐ近い、彼らの主人が昨日まで使っていた部屋。
「分かった。しかし…、折角新しい人生を踏み出すのに、いつまでも彼らや遠野に縛られるな。それは彼らの望むところではないはずだ」
「お言葉ですが軋間さま。私たちは自分を縛るつもりはありません。私達は、どうあってもお二人の傍にいたいだけです」
そう、翡翠ははっきりとつげる。
「分かった。もう何もいうまい。今週中に手配はすませる。あそこの家はもう使って構わない」
そういって軋間はその場所をあとにする。残ったのは…。
主人のカチューシャをした少女。主人が間違って渡したリボンをつける少女。
双子の名前は、遠野琥珀に遠野翡翠。
すぐそこに眠るもの達にとって、誰よりも「家族」であった二人。
二人の顔に浮かぶ笑みは、今一変の翳りも見えない。
明くる夏、そこには一輪、紅いひまわりが咲いた。
よりそうように咲く、一際大きなひまわりとともに。
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