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〜恋の理論〜


「邪魔するぞ、乾」
 そういって入れ替わりに橙子さんが入ってきた。
「鮮花とすれ違ったが、随分と似合わない顔をしていたな。お前何かやったのか?」
 そういって橙子さんも煙草に火をつけた。
「似合わない、ですか?」
「ああ。まあ、そんなことはいいか」
 本当にどうでもいいかというように、橙子さんは紫煙を吐き出した。
「鮮花ちゃんはどうしてああも黒桐にこだわるんでしょうね。式ちゃんとの関係を見る限り、もう
無駄だろうに……」
 ふと俺はそう口にする。
「ふむ」
 興味のない話題だと思ったし、無視されるかとも思った。
 事実、さっきの言葉は独り言のようなもので、橙子さんに明確な答えを求めて発したものじゃな
い。
「それじゃあ、お前はどうして今鮮花のことをそんなに気にしているんだ?」
「それは……」
「一人の女にはこだわらない。面倒だったら次にいく、じゃなかったか?」
「そのはずですね」
 俺自身も疑問だった。どうしてそこまで鮮花ちゃんをきにするのか。それは美人だし、口説こう
と思うことは不思議じゃない。けれど、普段ならここまで必死になることはない。
「乾、どうして人間は特定の異性に好意を…、まあ面倒だから『恋』とでも言い換えようか。そう
いった感情を抱くんだと思う? ああ、同姓に抱くケースもあるが、それはとりあえずおいておい
ていい」
「どうしてか、ですか……」
 どうしてだろうか。俺は今まで抱いた女全てに恋をしていたわけじゃない。
 考えてみると、むしろおれは本当に恋をしたことなんてないのかもしれなかった。
「もう少し突き詰めようか。例えば式のケースを取ろう。あいつの場合は、自分に寄ってくる同年
代の異性が黒桐しかいなかった。これだけで理由になるな。興味を持つには充分だろう。それまで
全く自分のことに関心を持たなかった周りの中で、一人だけ違うとなれば。そしてまあ、式と黒桐
の場合は、それこそそこら辺の2流のドラマや小説なんかよりもはるかに大きい『事件』。事象や
出来事と言い換えてもいいが、そういったものがあった。つまりは好意を持っておかしくないだけ
の事象があった。互いに互いのために命を顧みず行動するとかね。まあ、このケースはいいとしよ
う」
 俺は式ちゃんと黒桐の出会いや何かに関してそこまで詳しいわけじゃない。けれど、いいたいこ
とは分かる。興味を持ったりする理由があったり、好きになる理由がなっておかしくない事象があ
る場合。
「それじゃあ、黒桐のほうはどうだろうな。そりゃ式は特殊だからね。目に付くこともあるだろう
が、それでもどうして黒桐は式に惚れ込んだのか? 一度酒を飲んだときに聞いたことがあるだけ
だから、私も詳しくは知らないがね。けれど、黒桐は会ってしばらくしたら、もう式に惚れていた
というんだ。一目惚れとまでは行かないかもしれないが、まあそういった類のものだとしよう。そ
れでは、一目惚れとは一体なんだ?」
 一目惚れが何か? そりゃ、一目見て惚れこむことだろうけど……。
「お前なら、人よりも良く分かるだろう。お前の持論にも合う。世の中には、顔のいい奴なんて五
万といる。自分の好みに合うのに限っても相当な数だろうな。その中で、どうしてそいつを一度見
ただけで『恋』をする理由がある?」
 それはそうだ。俺は、式ちゃんも、鮮花ちゃんも、藤乃ちゃんも凄い美人だとは思った。けれど、
それで「この人だけ」と思いはしない。そんなことは過去にもなかった。
「中学や高校で良くあるだろう? 誰が好きだとか、何とか。尤も、当然私はなかったがね」
 クククと笑って橙子さんは新しい煙草に火をつけた。
「その好きっていうのも良くわからないだろう。健康な高校男児を考えてみようか。例えば、そい
つはA子を好きだと周りにいっていたとする。自分でもそう思っている。けれど、そこにある程度
可愛いB子が告白したとするな。その男はどうすると思う?」
「当然、告白はOKしますね」
「その通りだ」
 満足そうに笑って橙子さんは紫煙を吐き出した。
「一目惚れや、理由のない恋なんていうのはね、所詮その程度のものなのさ。あれはね、一種の自
己催眠だと私は考えている」
「自己催眠、ですか?」
「ああ。自分は高校生だ。それじゃあ誰かを好きでなきゃいけない。自分はもう29だ。結婚を考え
る時期だ。誰かを好きでなきゃいけない。誰かを求めなくてはいけない……」
「それは……」
「つまり、自分の人生を模範に添わせるための自己催眠だな。青春を満喫したい。しなくちゃいけ
ない。そうであるなら、誰かを好きであるべきだ。『とりあえず』あの娘を好きになっておこう」
 何というか、夢も何もない話しである。
「おかしいとは思わないか? 友人というのはとりあえず付き合いだしてから、その深さが決まる
だろう? 気の合わない奴やなんかとは、そこまで親しくはならない。それなのに、こと『恋愛』
となると変わる。まず付き合うのさ、多くの人間はね。その自己催眠によって好きになった対象に
告白するとしよう。相手がOKすれば、もう契約成立だ。当然のように彼らは絶対の愛を謳い、体
を交えるだろう。そこで契約…、『恋人になる』という契約が交されるだけで、その存在は絶対と
なる。付き合ってみて相手を好きになるんじゃない。付き合ったらその存在はもはや絶対なのだ」
 そうだった……。あれは中学3年の夏だったか。ある女子に俺は告白された。性行為やなんかに
興味もあったし、それなりに可愛かったので、俺はOKした。
 しばらくして、キスをして、体を重ねた。俺は、そいつのことが好きだった。充分好きだった。
嫌いでは、なかった。
 しかし、ある日その女子が文句を言ってきた。
『どうして私といる時間より遠野君といる時間のほうが長いのか』
 日曜日は、いつも一緒にいようとそいつは言った。
 俺は耳を疑った。どうしてはっきり知り合って2ヵ月もしないお前を、『遠野志貴』より優先し
なければならないのか、と。
 はっきりそう告げるとその女は泣きじゃくり、結局俺達はそこで終わった。
 考えてみるとそれがあってだと思う。特定の女にいれ込んだり、付き合ったりしなかったのは。
どうせ……、遠野より特別な存在なんかができようはずもなかったから。
「ようはね、人が明確な理由があって恋をするんなんていうのは、非常に稀だということだ。大抵
は、自分の深層心理による自己催眠から恋をするようになる、と私は思う。ああ、この理論を裏付
ける非常に大きな理由があってな」
 橙子さんはさも面白そうにククク、と笑った。
「なんですか、それは?」
「私は恋をしたことなどないからな」
「……」
「青春を満喫したいだとか、当たり前の家庭を持ちたいだとか、そういった感情は私には存在しな
い。ゆえに、異性を好きになる必要性など皆無だ。だから私は今だかつて恋なんていうものをした
ことがないんだろう」
「説得力ありますね」
「まあな。でも今のは冗談だよ。個人の経験を裏付ける理由なんて言ったら問題だろう?加えて私
は魔術師なんていう普通には当てはまらない存在だしな。しかしまあ、大抵の魔術師はそうだと思
うぞ? お前は魔術師というものをあまり知らないだろうが、多くの魔術師は、自分の研究を進め
ることで頭が一杯だ。優秀で、研究に没頭する魔術師ほど、恋や愛なんていう感情からは疎遠だろ
うな。性行為は愛の確認ではなく、性欲処理であり、肉体的な快楽の獲得にすぎない。家庭を持ち、
子供を作ることも、自分の研究を伝えるために他ならない。まあ、魔術師の家に生まれてみればそ
れも良く分かるさ」
 魔術師の家、と言ったとき、明らかに橙子さんは不快の感情を洩らした。
「吸いますか?」
 橙子さんの煙草が灰皿の上で灰になりきったのを見て、俺は自分のマルボロを差し出した。
「ああ、すまんな」
 突き出た一本を取り、口にくわえる。俺は火を差し出したが、『構わん』と彼女は言って、自分
で火をつけた。
「話しがそれたな。とは言っても無関係ではないがね。今までのことを踏まえて話しを鮮花に戻そ
うか。鮮花は、黒桐が兄だから好きになったのではない。好きになった人間が、たまたま兄だった
のだ、そう言っているのは知っているか?」
「ええ、聞いています」
「私はね……、鮮花には悪いが逆だと思っている。あいつは黒桐が兄だから黒桐に惚れたんだ、と
ね」
「兄だから惚れる……、ですか?」
「ああ。鮮花の起源は恐らく『禁忌』だろうからな。起源については前に話しをしただろう?」
 橙子さんと魔術関連の話しをした時に出てきた覚えはある。人の持つその人間を表すもの。
「まあ、起源を覚醒でもしない限りそこまで起源に縛られることなんてないんだがね。それでも、
肉体がそういった『方向性を持っている』ことに変わりはない。鮮花は、その起源に後押しされて、
黒桐を想うのではないかと私は考える。さっき言った自己催眠に似ている。鮮花はね、幼少の頃自
分は特別だ、と思っていたそうなんだが……」
「その辺りの話しは、一通り知っています」
「なるほど、それなら話しが早い。鮮花の中では黒桐がそんな自分に普通に接してくれたから、好
きになった。そんな感じになっているようだが……。自分は特別だから、普通とは違わなくてはい
けないから、兄である黒桐を好きになる。こう考えたほうがしっくり来ないか?」
「夢もクソもありませんね」
「夢なんていうものが存在するか。つまり、鮮花が黒桐に固執するのは、黒桐が禁忌の存在だから
さ。他に自分の禁忌を満たしてくれる存在がいない、だから無理だとわかっていても黒桐を想い続
ける。ふむ。案外別の禁忌を用意してやれば簡単に食いつくかもしれないぞ、それこそ無理矢理犯
してみるとかな」
「―――流石にそれは。しかし起源に縛られるですか。悲しいですよね、何というか」
「人のことは言えないと思うがね」
 クックックと珍しく大きな声で橙子さんが笑う。
「どういうことですか?」
「お前も起源に縛られて、鮮花に好意を持ったのかもしれないってことさ」
「俺が、起源に?」
「私が見る限りお前の起源は『固執』だ。ある一つのものに固執しすぎるが故に、他のモノには執
着しない。だから傍から見ればまるっきり逆に見えるかもしれないが、私はお前の本質は『固執』
だと考える」
 ある一つのものに固執しすぎるから、他のものに執着しない、か。
 あっているかもしれないな……。
 そう思って俺は苦笑した。
「しかし遠野志貴という存在がお前の前から消え去った。今はその幻影を追ってはいるが、あるい
はお前は新しく固執できる何かを探しているのかもしれない」
「間違ってはいないかもしれないですけど、随分穿った見方ですね」
「『契約に至る過程及び契約名称の別名。女性は金銭の、男性は娼婦の役割を相手に求める口約束
の署名。契約は結婚という最終的な条約締結となる場合祝福されるが、契約及び条約破棄は豚同士
の罵りあいとなる』愛に関してこう風刺した人間もいるぐらいだ。見方によって、同じものでも全
く変わる。それは全てが真実であり、その全てが憶測と虚構にすぎん。ゆえに鮮花が黒桐を好きに
なった理由や、お前が鮮花に恋をした理由が私の言った通りであるとしても、それが汚いとかなん
だとかそう思う必要はない。そもそも人の感情にそんな格式をつけること自体間違っている」
「そう、ですね。まあ、色々と考えてみますよ」
 橙子さんの言ってることは、鮮花ちゃんのほうはどうかは分からないけれど、俺のほうに関して
はあっているように思えた。自分自身橙子さんの言うとおりだと思った。
 俺は立ちあがり、宿直室を後にする。
「『恋』なんてものを持ちえない人間もいるんだ。そういった感情を持てるだけ上等だと思え」
 部屋を出る前にそう言われた。
 俺は一瞬立ち止まって、また歩きだした。
 背中越しに、『今年の、「年に一度の失言」だな』なんて声が聞こえた。

《《『空の月』鮮花ストーリーより抜粋》》


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